La Scala

Architecture

スカラ座(イタリア語: Teatro alla Scala、あるいは単にイタリア語: La Scala)は、イタリア・ミラノにある歌劇場で、初代の宮廷劇場以来の伝統を持つイタリアオペラ界の最高峰とされています。

スカラ座は数々の著名なオペラの初演の舞台となっています。プッチーニの代表作である『蝶々夫人』や『トゥーランドット』はスカラ座で初演されています。とりわけヴェルディとは特別な関係があります。あるときヴェルディの音楽が座付きオーケストラによって改変された(ヴェルディに言わせれば破壊された)ことを理由に、ヴェルディは彼の作品を上演することを禁止していたことがあるそうです。

現在の建物は2代目のもので、初代の歴史的建築物のテアトロ・ドゥカーレ(Teatro Ducale)は1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失した。劇場のバルコニー席(palchi)を持つ裕福な90人のミラノ市民がオーストリア大公フェルディナントに新しい劇場の建設と、新劇場完成までの仮劇場の提供を依頼した(当時ミラノはオーストリアの領地であった)。
新古典主義の建築家ジュゼッペ・ピエルマリーニが最初の設計案を作ったが、オーストリア長官のフィルミアン伯爵はこれを却下した。1776年、第2案が女帝マリア・テレジアにより承認された。

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建設費はバルコニー席の売上げで賄われ、各ボックスの持ち主は自席を豪華に飾り立て、スタンダールら観客に強い印象を与えた。劇場はほどなく「スカラ座」の名で知られるようになり、高貴で裕福なミラノ市民の絶好の社交場となった。当時の慣習では、平土間席(プラテア)には座席が無く、観客は出し物を立ったまま鑑賞した。オーケストラ・ピットの構造はまだ導入されておらず、オーケストラは客席から丸見えであった。
スカラ座は一貫して、バルコニー席の階上に余り裕福でない人でも観劇できるようなガレリア席を設けている。これはロッジョーネ(天井桟敷)と呼ばれる。ロッジョーネへの入口は、通常の正面入口とは別に建物横に造られている。スカラ座の当初の照明は油のランプで、舞台用の84基およびその他劇場内のための数千基が設置されていた。そのため何百個もの防火用水入りバケツを多数の部屋一杯に配置していた。その後油ランプはガス灯に替わり、1883年には電灯に交換された。当初の構造は1907年に改修されて今日の配置と同様になった。

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スカラ座のシーズンは伝統的に12月7日の聖アンブロジウスの日(ミラノの守護聖人)から始まる。この日の上演はすぐ近くのガレリア内に設置された巨大モニターを通じて生中継される。全ての公演は深夜0時までには終了しなければならず、長大なオペラは必要に応じ開始時刻が繰り上げられる。入場券を持っていても開演後には入場が許されない。
天井桟敷には口うるさく熱狂的なオペラファンが多数詰め掛けており、歌手がうまく歌えたり失敗したりするのに対し熱狂的にも批判的にもなりうる。スカラ座の天井桟敷はオペラ界の炎の洗礼であるとみなされ、失敗は末永く語り継がれる。テノール歌手ベルゴンツィは、アイーダの歌い出しでしくじったことが許されず、イタリアで最も軽蔑的とされるフィスキ(口笛)で野次られ、長期間に渡りスカラ座の舞台に戻ることが無かった。ロベルト・アラーニャもアイーダ開始早々のアリア(「清きアイーダ」)で天井桟敷から「恥を知れ!ここはスカラだぞ!」とブーイングされた。彼は演奏の途中で舞台を放棄し退場した(前述のベルゴンツィはプロとして、最後まで歌いきっている)。

マリア・カラスの『椿姫』はスカラ座の歴史上において最大の成功作のひとつであり、記録的な収益をもたらした舞台であった。しかしその後1964年12月17日にカラヤンとミレッラ・フレーニのコンビでの上演が完全に失敗して以来、スカラ座での『椿姫』の上演が封印されることとなった(「カラスの呪い」と呼ばれていたが、1992年になってムーティが上演を強行し、30年近くに及ぶ封印を解く事となった)。しかしこのマリア・カラスでさえ、この当時のスカラ座にはカラス派とレナータ・テバルディ派というものがあったため、『椿姫』の公演の最中に天井桟敷に陣取ったテバルディ派の観客から野次と口笛が鳴らされたという。

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