Barcelona Pavilion 1929/1986

Architecture

バルセロナ・パビリオン(Barcelona Pavilion)は、モダニズムの建築家ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日 – 1969年8月17日)が、1929年、博覧会のために設計した施設で、モダニズム建築の傑作の一つとして知られる建物です。今、見ることができる建物は、1986年に復元されたもので、現在はミースの記念館になっています。

バルセロナ万博で、スペイン国王夫妻をドイツ館に迎えるためにデザインした有名な椅子が『王の椅子』と呼ばれる「バロセロナチェア」です。モダンデザインの傑作として知られています。

ミースは、ドイツのアーヘンに、墓石や暖炉を主に扱う石工のネーデルラント系の父ミヒャエル・ミースと母アマーリエ・ミース(旧姓ローエ)の息子として生まれた。大学で正式な建築教育を受けることなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けた後、リスクドルフの建築調査部で漆喰装飾のデザイナーとして勤務。1906年にブルーノ・パウルの事務所に勤務。パウルの事務所の同僚の紹介により、1907年に最初の作品であるリール邸を手がけている。この仕事が認められたことにより、1908年から1912年まで建築家ペーター・ベーレンスの事務所にドラフトマンとして在籍し、建築を学ぶことになる。1912年、独立して事務所を開設。1913年、アダ・ブルーンと結婚。アダの紹介によりベルリン近郊の富裕層の住宅の設計を手がける。1927年、ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ベーレンス、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらと共に、実験的な集合住宅を建設した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%A8

バルセロナ・パヴィリオンには三つの「行けない場所」があります。(A)基壇上の外部に位置する大きな池、(B)ゲオルグ・コルベの彫像が立つ小さな池、そして、(C)基壇中央付近に位置する光の箱の3つです。これらの「行けない場所」は、どれもパヴィリオンの空間を豊かにしています。また、似たような行けない場所」は、トゥーゲントハット邸(1930年)にも見ることができます。

バルセロナ・パヴィリオンが設計されたのは、ガウディが74歳で亡くなった3年後、ミースが43歳の時でした。 1927年にシュトゥットガルトで開催された、ドイツ工作連盟の住宅展覧会の運営の成功によってミースは、1928年にこの建物の委託を受けました。建物は「仮設」だったこともありますが、博覧会終了後まもなく取り壊され、鉄や石材は売却されました。写真がニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された「近代建築展」(1932年)とその図録『インターナショナル・スタイル』などで紹介され、やがてモダニズム建築の傑作として評価が確立しました。

1954年、建築家オリオル・ボイガス(Oriol Bohigas)が復元についてミースに打診したそうですが、費用面で実現しませんでした。1978年、ニューヨーク近代美術館がパビリオン50周年展を企画し、1981年にボイガスがバルセロナ市の都市計画局長に就任したことで計画が進み、1983年にミース・ドイツ館財団が設立され、ミース生誕100周年に当たる1986年、博覧会当時と同じ場所に復元されましたた。

復元にあたり、屋根は鉄骨造から軽量コンクリート造に、鉄柱はクロム鋼からステンレスに変更され、オリジナルの基壇は勾配が取られていませんでしたが、排水のため、床のトラバーチンを鉄骨で支えて継目にわずかな隙間を設けるなど、恒久的な施設とするための工夫がされています。スタッコ仕上げだった壁は、ミースの意図を尊重し、トゥーゲントハット邸のような大理石仕上げに改められました。

今のパビリオンの見せ方は、初めから全体が透過して見えて、空間のシークエンスなどミースの意図した効果をあまり感じることができません。博覧会当時のアプローチは、池の奥の壁の裏側からアプローチをして、奥の三方を緑色テニアン大理石の壁に囲まれた屋根のかかっていない水面と、ゲオルク・コルベによる裸婦像を正面に見ながら、オニキスの壁の奥側から室内に入っていた…と聞きました。なるほど、その方が劇的です。

『ミース・ファン・デル・ローエ Vol.1』1998.1 彰国社に掲載されたミースの十字形断面の鉄柱の断面です。上がバルセロナ・パヴィリオンのもので L-70×70×5.5 のアングルと PL-5.5 で制作されたもので、165mm 十字の厚さは28mm の柱になっています。下はトゥーゲントハット邸(1930年)のもので、クロムメッキされた真鍮でカバーされています。

バルセロナ・パヴィリオンでは、仮設当時のオリジナルはクロム鋼だったものが、ステンレスに置き換わり、ステンレスのカバーが付けられています。

この細い柱が、サッシュや壁と絡むことなく屋根を支えることで、伸びやかな外に広がる空間が実現できています。

バルセロナ・パヴィリオンは、水平に長く伸びる薄い屋根を8本の十字形断面の鉄柱が支える構造です。構造から独立した石・ガラスの壁が自由に配置され、内部・外部にわたって流動的な空間を形作っています。ミースの煉瓦造田園住宅やバルセロナパビリオンに関しては、多くの論文が発表されています。同時期の住宅作品トゥーゲントハット邸(1930年)との共通点も多く、とても魅力的な建築です。

ミースが活躍し、翌年の1928年にバルセロナパビリオンの設計を受注することにつながった、1927年の「ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展」についても紹介しています。

タイトルとURLをコピーしました