Spedale degli Innocenti

Architecture

捨て子養育院と呼ばれるこの建物(Ospedale degli Innocenti)を直訳すると「罪のない病院」になります。「捨て子養育院」は、赤ちゃんを匿名で放棄することができる場所でした。1875年に病院が閉鎖するまで、顔を見られずに人々が匿名で孤児院に介護される自分の赤ちゃんを残すことができるように特別な回転水平車輪付きのドア(赤ちゃんポスト)がありました。最初の子供は1445年に受け入れ、最後の赤ちゃんの受け入れは1875年6月29日の夜でした。

ブルネレスキの初期の代表作である捨て子養育院(Ospedale degli Innocenti)の設計にブルネレスキが選出されたのは、彼がクーポラ造成のコンペの実績がすでに認められていたこともありますが、同時に、当時のフィレンツェは戦費の負債をかかえていたため、捨て子養育院の建設費の大半をブルネレスキが所属する絹織物業組合に依存していた、という背景もありました。

厳しい予算の中、機能的に設計したものと推察します。完成および運営開始時期はデル・フィオーレよりも捨て子養育院のほうが早く、イタリアルネサンスはこの建物から始まります。「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」とは、「花の聖母(マリア)」という意味で、 ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つからなるカトリック教会のことです。

内部は回廊が囲う二つの中庭があって、採光も通風も配慮された静かな空間が広がります。建物の一部は1451年に奉献された教会となってます。現在も保育園としても機能していますが、美術館としての歴史も古く、19世紀に修復改造工事の費用捻出のために、300以上の芸術作品を売却し、それらの多くは現在、世界中の美術館が展示されてます。2017年、美術館が新装再オープンしました。

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