Fallingwater 1936 Background

Architecture

1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況でした。妻は依然として離婚に応じませんでしたが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めました。

その後、少しずつですが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲うことになります。タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのです。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死しました。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテル新館設計の仕事でした。

帝国ホテル

ライトは、1913年、帝国ホテル新館設計のために訪日します。以後もたびたび訪日し設計を進めましたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされました。ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工しました。

数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトでしたが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘)、ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになります。 2作ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に用いられた構造です。

また、同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計しました。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされました。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品になります。

タイトルとURLをコピーしました